ネット法話④

36.不殺生戒(ふせっしょうかい)

本日は仏教徒として最低守らなければならない「戒律」についてお話し申し上げます。これは仏教徒である前に、人間としてという方が正しい言い方かもしれません。
そこで人間存在の上に立って、仏教的な見方というか、考え方をすると、どのような事柄を守るべきものであるか、お話し申し上げていきたいと思います。
ここで少し世界に目を向けますと、各国には憲法、法律があり、地方においてはその土地の風土に合った規則があり、地方自治にも条例等の取り決めがあります。
それは、国民、県民、市民が生きて行く上に平和を望み相互理解に立って皆で決め、必ず守らなければならないものとして受け止めています。反面、宗教に関わる争いは、その宗教の指し示す教えを守らんと、人間同志の戦いにまで発展してしまう程厳しく守られ、誠に残念な結果を報道で知る所となります。本日は国際紛争を、どうこう申し上げるつもりはありませんが、私達も少なからず、これに似た争いを招かないよう、自分を取り巻く環境を見直すと良いと思います。
人間は時代の流れの中で、時の道徳や倫理を生み出してきました。それを人間社会に通用するかどうか常に変化させ守ってきた訳です。しかしこれからのお話は、どのような時代であれ、変化させてはならない仏教的に見た、人間として「戒律」を守るという事なのです。
前置きがだいぶ長くなりましたが、いよいよ本題に移りたいと思います。
お釈迦様は日常生活に於ける宗教的規範を「戒律」と定め「いましめ」と説かれました。この戒律には「五戒」「八戒斉」「十戒」といった一般の人々が守るべきものと「二百五十戒」「三百四十八戒」と出家者が守るべきものと分けられていますが、日本に伝えられた「戒律」全てをお話しする事はできませんのでここからは、仏教の最も初歩的なものとしてお話を進めていきたいと思います。
さらに、本日このお話を読んでいただいている方々は、内容如何を問わず守ってきたかどうか、自分の中で確かめ、人間の高慢な心を我が心と知り、今日から改めて行く行き方が人間に生まれてきた喜びと感じて戴く事を望みます。
まず「不殺生戒」です。
これは「生き物に危害を加えたり殺したりしない事」と説かれています。
さて、私達は今まで、たとえどのような事があろうと生き物を殺した事などない、また生きてきた日常生活で一つの命も奪った事など無いと言い切れる方がいるでしょうか。そのような方はこの世に一人としていないと思います。何故なら、今日の私の命は、多くの命によって支えられ、育まれて生きています。直接手を下さなくても、今日の食材は必ず小動物の命が我が命となって生きていけるのです。
皆様はご存じですか。食事の前に「いただきます」と何故言うのか、あるいは何も言わず食べる方もいます。これは、動植物達よ貴方の命を「いただきます」と言う切なる心なのです。そして、食後は「ご馳走様でした」と言いますが、これもまた食材になる前、いろいろな人々が走り回り三食の食卓に並べられる事から「ご」や「様」まで付けて、感謝の意味を表わしているのです。
ところがこのような言動は、宗教儀礼であるからやめましょうと給食の時間に指導した、ある小学校の教師がいたという記事を読み、何とも情けない思いをした事があります。この先生は、どんな親に育てられたのだろうか。あるいはこの方の環境は宗教情操のない所だったのか、本当に残念な事です。もちろん仏教的「いましめ」とは言え、人間が本来持っている慈しむ心はたとえどんな宗教でも説かれています。キリスト教では旧約聖書に「十戒」として守るべき道があり、愛を説いているではありませんか。
要するに昔の人々は宗教を知らずとも、自然の中の一部である自分自身を肌で感じていたのです。現代人はその事を忘れてしまっているのです。ですから最初申し上げました通り、人間として自分はどうこの「戒律」と関わって生きて行くかが問題であり、私にとって守らなければならない「不殺生戒」と知らされたのです。
如何でしたか。本日は第一に「不殺生戒」についてでした。来週も戒律のお話しですが、自分の心に問いかけて戴きますよう願うと共に、できるだけ守ってみることをお勧め致します。

37.不邪婬戒(ふじゃいんかい)

今回も前回に続き「五戒」の中からふたつお話し申しあげます。
さて二番目はと申しますと「不邪婬戒」です。
これは「夫以外の男性、妻以外の女性と交わってはならない」ということです。
つまり性行為をしてはいけない事なのですが、仏教の場合、出家者に限り「不婬戒」と称し、厳しく男女関係を認めませんでした。ところが一般の人に対しては、正しくない性関係は認めず、その事を「戒律」として守らなければならないとされたのです。ですが当時、古代社会にありました一夫多妻の考え方は、複数の妻を持つ事が許されていました。そこで私達の歴史に目を向けてみましても、その時代の生活規範と言う事では、誰もが知っているように許されていたのです。現代社会では理解に苦しむところですが、日本でも絶対権力者のみが許される多妻思考が西欧と同じようにありました。
しかしこの制度は、子孫を残すと言う大義を名分化した当時の考え方であり、そのまま現代社会に当てはめる訳にはいきません。 そして、近代に至っては、女性の地位も確立され、男女の関係を正しく保つ為、法律によって一夫一妻制が定められています。
にもかかわらず、ここ数年間世の中の乱れは目を覆いたくなります。心の乱れと共に、倫理に反した行いがまかり通っている事は何とも悲しい事です。消費は美徳と人間の欲をあおりこれでもかと売り込み合戦をし、心身までもを売るというような、フリーセックス、援助交際、テレクラ、テレホンセックスなどの不純異性行為を野放しにして、産業までに発展させてしまうとは、これからどのような世の中になってしまうのか、不安材料の一つに数えられます。お釈迦様は、こうなる世の中をはっきり見据え、男女間の倫理を「不邪婬戒」と定められたのでしょう。
次に三番目として「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」が説かれています。これは「盗みを働いてはいけない」と簡単に受け止めてはなりません。それは別の言い方で「不与不取戒(ふよふしゅかい)」と言われ「与えられていないものを取ってはならない」と厳しく戒めているのです。単に他人の物を盗むという事ばかりでなく、有形、無形の事柄全般において盗んではならないと言う諭(さと)しなのです。
すなわち、人間が生きて行く限り、互いに認め合い、譲り合って生活して行く事が望ましいのですが、一つ間違えると、心の中まで盗んで行くのが私達です。
これは他人を「騙(だま)す」「欺(あざむ)く」「ごまかす」という心であり、恥ずべき行いと知るべきでしょう。たとえば、バブル時代の放漫経営が各所で破れ、社会全体に暗い陰を落としています。そして日本国民全体が、如何に浮かれ舞い上がっていたかと振り返ってみると、グルメ嗜好などと食べ物を粗末にし、経済の破綻(はたん)、倒産、リストラ、不景気と続き、挙句の果てにはペテン師まがいの宗教がはびこり、心身を滅ぼしていく。
何故このような社会になってしまわれたか皆様お分かりですか?それは互いに心を盗み、消費させようと「ごまかし」、欲を増大させる為「騙し」「騙され」、必ず大金持ちになれますと「欺かれた」からです。そんな時、この「不偸盗戒」を自分自身の「戒め」として自覚していたなら、少しは反省する事もあったでしょう。
今からでも遅くはありません。現実を直視し、自分の回りを見直す時がやって来たのです。まだまだ世の中見捨てたものではありません。努力次第ではやり直しのきく社会です。そして、今まで以上の欲を全て捨て、初めからやり直す気持で進めばきっと新しい人生が開かれる事でしょう。
さら「不偸盗戒」とは物をぬすむ事ばかりでなく、心の乱れを正しい方向へ示す、一つの指針となるべく悟しの金言であったと知る事ができた訳です。
如何でしたか?
本日は二つの戒律をお話しいたしましたが、ちなみに「偸盗(ちゅうとう)」の「偸」も「ぬすむ」と読みます。従って重ねられている所に、お釈迦様が、この世に対して厳しくお示し下さっているものと感じては如何でしょうか。

38.不妄語戒(ふもうごかい)

今回も前回に引続き戒律についてのお話です。
では第四番目に「不妄語戒」についてです。これは単純に「ウソをつかないこと」という意味ですが、深い意味として、人間同志が話をする時「実(じつ)」のある言葉だけを述べると言う厳しいお悟(さと)しなのです。
「ウソ」と「欺瞞(ぎまん)」に満ちた言葉が並べられ、心にもないお世辞を言い、諂(へつら)い、我身を守らんとする人々が何と多い事でしょう。世の中を生き抜いて行く上で、人間社会にしかできない言語活動をする時、少しでも自分の意見を相手に伝える勇気と、ゆるがぬ決断が欲しいものです。そして自分の考え方が、違っていたら改め、共に理解を示す事こそ「実」のある会話と言えるのではないでしょうか。
近頃このような時間を持たなくなりました私達は真剣に生きる事を忘れているように思えます。だからと言って、日々議論ばかり闘わすような生活をという訳でもありません。時には娯楽も必要でしょう。また言葉の遊びも心に余裕が生まれる為に大切です。要するに、生きる為には本音で語り合い、心の中に疑心暗鬼を起さないようにする事が望まれるのです。
仏教ではこうした正しい行き方の手段や方法で、真実に向かわせる為の虚言は許されています。これを「方便」と言う言葉で表わされていますが、世の中で使われている「ウソも方便」とはまったく逆の意味である事と知らねばなりません。
たとえばガンの告知された本人や家族が、相手の心情を思い計り、互いに励まし合う言葉がたとえ「ウソ」であろうと誰が責めますか。生きていく為に最大の努力を惜しまず、頑張りましょうと言う事ではないでしょうか。あるいは、災難が降りかからんとしている子供に対し「こっちの方におもちゃや、お菓子が一杯あるよ」と言う言葉は、確かに「ウソ」かもしれないが、子供達を救う為の手段としては最適でしょう。
ですから自分の欲望を満足させる為に使っていた言葉が「ウソも方便」と気付かされるのです。即ち「不妄語戒」とは、利権やそれに関わるあらゆる言葉に「ウソ」があってはならないとの「いましめ」なのです。
さて次にいきましょう。最後の戒律第五番目です。これは「不飲酒戒」と申しまして、お酒の好きな方にとっては厳しすぎる戒律です。何故なら「酒を飲んではならない」ということですから。
とは申せご安心下さい。これは、酒を飲む事自体を戒めた訳ではなく、飲酒をした後の結果として、前述の四つの戒律を犯す可能性が多いことから定められたのです。
たとえば、どなたでもお酒を飲むと少なからず変ります。気が大きくなったり、沈んだり、人格さえも変わる方がいらっしゃいます。また、酒の力を借りなければ何もできない等、世の中には様々な人々がいます。そこで、仏道に励む者が酒に酔って宗教的実践に大きな妨げになる事を予測し、制定されたのがこの戒律なのです。逆に、キリスト教ではブドウ酒を飲む習慣があり、神道では「おみき」と称して神前にお供えする風習を見ても分かるように、人類の歴史にはアルコール飲料が宗教的儀式に関係ある事も事実なのです。従いまして「飲んでも飲まれるな」の言葉が示す通り平常心を保つ事のできる方は大いに飲んで楽しい人生を送りましょう。
如何だったでしょうか。三回に渡り、五つの戒律をお話し申し上げてきましたが、ここで注意すべき事は、お釈迦様によって制定された戒律ですが、全ての仏教徒は自分の立場に応じて守る事となっています。しかも誰からの命令と言う訳でもないのですから、守らなかったとしても罰則があると言う事ではありません。
結局戒律は自分が悟りへ向かう為の手段としてあるので、もし犯すような事があれば、自業自得の教えによって自らがその報いを受ける事になるのです。即ち誰の為の戒律かお分かりいただけたかと思います。
皆様どうぞ年の瀬、この戒律を思い起し、仏教徒であるならば、近日中にやってくるどなたかの誕生日にかこつけて飲酒をしたり、ケーキを食べたりせず、新しい年を迎える準備に励みたいものです。

39.末法の世

今年も残すところ後一日となりました。皆様の一年は如何でしたか。私は四月からこの放送を、しきたり、俗習、風習、迷信と仏教の教えから程遠い誤った考えを正しましょうとお話を進めて参りました。そしてラジオの向こうでどのような方が聞いてくださっているのか、少しでも自分に問いかける内容になっているかの思いや、お話を聞いて、生きるためのヒントになったであろうかと申し上げてきました。本当に、月日の経つ早さに今更ながら驚いているところです。
そんな中で、今年も不景気の嵐が吹きまくり、交通戦争、受験戦争と戦いをあおり修羅場を渡らせ、この世を生き抜く為には自分さえ良ければどうでもいいという生き方が、人々の心の中を畜生道に落としめ、損得勘定に電卓がうなりをあげて、人間が餓鬼道の地獄へまっしぐら。仏教ではこのような世界を地獄と表現されており、お釈迦様は現代世界を末法の世と言い当てています。
末法の世とは、真実が届かないことの世界であり、「徒然草」には私たちの一生が描かれています。
それは 蟻の如くに集まり、身分の高い人、低い人。年をとった人、若い人、行く所あり、帰る家あり、夜は寝て、朝起きる、なぜこんなに忙しく働くのか、やたらに生きようとし、自分の欲には止まる事を知らない、我身のみを可愛がってどうするのか。いずれ、老いと死のみが待ち受けている事も知らず、あくせくと、一瞬の間も休むことはない。名誉欲や利益の追求に心を奪われ、死の事など考えようとしない。又、患者はいたずらに老いと死を悲しむ。諸行は無常の真理を知らないからだ。
と示しています。私たちの一生がこれで良い訳はありません。
しかし、現実の世界は誠にその通りであります。暮れになると宝くじを買い、当たるようにと仏壇に供えたり、当たりの良く出る店を求めて東奔西走したりする姿はなんとも悲しいですね。さらにパチンコ、麻雀、競輪。競馬とギャンブルに狂い不確定な利潤を追い求め、人生は「カケ」だといわんばかりに必死となって生きている姿も、心の寂しさを紛らわす方法としか受け取れません。さらにもっとも悪質なのは、心の拠り所であり、いつも見守り幸せを願って下さっているご先祖様を、事もあろうに「取り付く」とか「祟(たたる)」と災いをもたらすような事を言い、供養しなければ不幸になると恐喝に近い宗教が、現代を生き抜くにはこの宗教しかないなどと騙し騙されている。
そんな世の中にいる自分を、この際見直してみてはどうでしょう。今がその「時」です。好むと好まざると、時間は平等に与えられているのですから、人生の再挑戦をしてみようではありませんか。
「時」は決して止まってはくれません。だれもが知っているけれど、誰もが感じていない。もっと自分の存在に価値を見つけ、お互いに誇りを持った生き方をしてみませんか。
さていよいよこの放送も残り少なくなりました。
この時期になりますと一年を反省する意味で十大ニュースを取り上げます。世界の、日本の、県下の、三島のという具合ですが自己を見つめると言うことで自分にとっての十大ニュースをそれぞれ思い起こしてはどうでしょう。十大の「十」は「重要」の「重」という漢字を頭に浮かべながらです。
私は毎年「自分の誕生日を迎えることができた」を最初にあげます。何故なら来年の約束ができないからです。これ以上の喜びはありません。大げさなと思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし考えて見れば、不確定要素を一杯に含んだ世の中です。自然の驚異、人為的災害、病気等、何一つ確かなものはないのです。そんな世界で私がこうして生きて行ける事ができるなんて、何と素晴らしい事ではありませんか。
次には出逢いです。それはいろいろな出逢いが縁となり、友人として人間関係を結ぶ事ができる。これも我が人生にとってありがたいものなのです。
以上、今年の放送はこれが最後です。この番組をお聞きくださっている方の中には淋しく辛い別れをされた方もいたでしょう。また反対にこの一年は最高と歓喜に酔いしれた方も「人生は苦なり」の基本的教えに立ち返り、一歩一歩確かな道を歩みましょう。
どうぞ皆様良いお年をお迎えください。元旦早々、菩提寺様にお参りしてご本尊様とご先祖様に元気な姿を見て戴く事も「イキ」な事ですよ。

40.正月

皆様明けましておめでとうございます。本年最初の心の窓を開く時間がやってまいりました。
皆様は新しい年を迎えて如何でしたかご多聞にもれず寺社仏閣に、商売繁盛、家内安泰、交通安全、学業成就、無病息災などなどのお願いで忙しいお正月ではなかったのでしょうか。やはり、人間の煩悩は断つ事ができないのですね。
さて本日は、お正月についてお話申しあげたいと思います。
昔から一年の最初を「元旦」と呼び「元」は「ハジメ」という意味で、まさしく365日の出発点であることは皆様もご存じの通りです。
また、この「元旦」の朝を「元旦」とも言い、この日の朝こそ、一年一月一日として心を新たにする所でしょう。さらに「旦」とは「朝」として、気を引き締め、これから始まる一年の決意をするときとしてお迎えしたことでしょう。
それでは、皆様が迎えるお正月をともに考えてみたいと思います。まず祝日と言うことで、国旗を掲げますが近頃はあまり見かけなくなりました。
次に門松です。これは千年の寿命を約束すると言う願いで大変めでたい木ということから玄関先に立てられるようになったのです。この松の木を正月に使うようになったのは、藤原時代で、室町時代には「竹」が加わり、江戸時代には「梅」加わり、今日の松竹梅が一般的になったようです。
次は玄関の入口です。
ここはほとんどの家庭で鴨居に注連縄をつるします。そしてその意味が何であるかも分からず、ただお正月のお飾りの一部であると思っているだけの事なのです。実はこのしきたりは、内と外の境界を示す意味から、ついには不浄をはらい清めるという俗習になったのです。更に、7本5本3本という「ワラ」を垂らし太い部分の縄目に神様が宿ると言い伝えられ、福を願うしるしとなったのです。
次はお正月に欠く事のできないお餅についてです。
元来新年に餅を用いる事は古くから伝えられ、それは三種の神器「鏡」「玉」「剣」の中から1つを真似、鏡餅としたのです。この風習はそれこそ仏教が伝えらる以前より土着の信仰としてあり。重仁天皇の時代には「元旦、紅白の餅を用いて亡魂を祭れば国中平安なるべし」と国民の平和を願ったそうです。
さあ鏡餅が用意されますと、餅の上に「橙」を乗せます。これは、冬になると黄色くなり、そのまま木に着いていると、春には緑になる珍しい果物で「代々子孫繁栄」を意味するものという所から多くの果物から選ばれたのです。
次に朝に食事は古くから「雑煮」を祝うと言われ、起こりとしては、昔の祝い事には必ずあった献立が民間に伝えられ、正月ぐらいは、家族とともに食べる風習となった訳です。同時に「お屠蘇」と称してお酒を飲む事も1年の始めだからと、一般家庭にも広がったのです。ちなみに「屠蘇」とは、いろいろな薬草を砕き調合して不老長寿の効果があるとされたものです。
その他、お正月のしきたりや風習は地方によって独特な形式もありますが、最後に忘れてならないものに「お年玉」がありました。この風習は中国にその起源を見る事ができます。それは、目下のものに贈り物をする習わしが日本では正月にする贈り物をお金に変えて、お年玉としたようです。
以上、お正月を迎えた私達は例年、何のためらいもなく、年々派手になり、ついつい浮かれて3日間を過ごしてしまう事実を考え直す時期が来たのです。つきましては、今までお話したお正月については、ほとんどが風習、俗習の部分が多く、神道的色彩の濃いものでしたが、これを否定する気は毛頭ありません。
そこで仏教的に迎えるお正月はと言えば、まず各宗派に於いて、新年を祝うことは当然のことであります。それは「修正会」と言う法要を行い、基本的には、世の中が、穏やかで、安らかな日暮しをと、お勤め致します。更に、ご本尊やご先祖様が常に守って下さっている事や、自分以外の人々や物の恩に感謝し恵みを喜ぶという法要を勤めるのです。要するに新しい年を迎えることができたと、お仏壇や菩提寺様にお参りし報告する事が大切であり、神事的なお飾りなど不必要なのです。そして。仏教徒である自分の目覚めお正月を迎える心なのです。最後に次の一句を示してお正月のお祝いと致します。
み仏のみやげに年をひろうかな