長照寺
- 寺号
- 摂取山 長照寺(せっしゅざん ちょうしょうじ)
- 宗派
- 浄土真宗本願寺派(西本願寺)
- 宗祖
- 親鸞聖人(しんらんしょうにん)(1173~1263)
- 本山
- 龍谷山 本願寺(西本願寺)
沿 革
- 平成元年1月
- 旧・本堂(旧・庫裡)上棟式
- 平成元年4月
- 住職・坊守 入山(現・長照寺)
- 平成元年11月
- 旧・本堂(現・庫裡)完成落慶法要・祝賀会
- 平成4年8月
- 宗教法人長照寺 寺号公称許可
- 平成5年8月
- 宗教法人長照寺設立記念および住職就任報告法要・長照寺門信徒会設立記念祝賀会
- 平成9年11月
- 新・本堂完成
- 平成9年11月
- 新・本堂 完成落慶法要・祝賀会
- 平成10年4月
- エフエムみしま・かんなみ(ボイスQ)ラジオ法座開始
- 平成13年4月
- 梵鐘火入れ式
- 平成13年11月
- 梵鐘・鐘楼 完成落慶法要・祝賀会
- 平成17年4月
- 長照寺仏教壮年会 設立
- 平成20年5月
- 親鸞聖人七五〇回大遠忌お待ち受け 法要・講演会・祝賀会
摂取山長照寺新寺建立二十周年記念
建立のあゆみ
ブラジルへ渡った青年時代
昭和61年、三島市谷田に居を構え、一念発起し新寺建立へ行動を開始する。
少々私事であるが自己紹介をさせて戴く。三島市加屋町の善教寺の四男として生を受く。地元の小中高を卒業、昭和48年3月京都龍谷大学卒業、その年7月、南米サンパウロで開教使の任につく。
ブラジル全土を回り、日系の人々は元より現地の青少年開教に重点を置き、仏教伝道の日々を5年間過ごす。帰国後善教寺の副住職となり寺務法務に専従す。
疑問から行動へ
さて、その間仏事を通じ多くの疑問が生まれ始めた。
人々の心は荒み、物に執着し本来仏教の旨である正しく明るく生きること、この大切さを説いている教えが忘れられ、人間の欲望を満たすことを可能にすると説く、因縁の道理を無視した教えが世の中に広まり、それがあたかも正教であると人々を惑わす。俗習、風習、葬儀社のいいなり等、現代社会にあっては疑問をもたざるを得ない。
今こそ釈尊の教えが現代社会に必要欠くべからざるものと信じ、自分自身の嘆きを仏教の真実を伝える形で解決できること、そして人々の苦悩を少しでも和らげる助力ができればと、浅学非才の身でありながら大それた思いと夢を抱きつつ行動へと駆り立てるのである。
夢と想いの地
まず、それには誰もが気軽に門を叩くことのできる伝道の場、その基礎となるべく土地獲得に踏み出したのである。三島市郊外箱根西麓方面を皮切りに土地の選定が始まる。
土地法典や市役所の土地台帳から地権者を調べ交渉を始めた。祖先代々の土地を簡単に手離すわけはなく、やっとの思いで信用を得、交渉に入ると、土地代金、進入路、電気等の諸問題がたちふさがり断念。そうこうしている間に1年が過ぎようとしていた。
土地を求めて奔走している私の噂に地権者の情報をくださった知人がいた。地形的には最悪であるが景色はすばらしい、もう我がままは言っていられない。土木関係会社の方々からも励まされ、三島市北上地区徳倉を夢と想いの地として、此処を選定の最後とした。
新寺建立
昭和62年2月土地仮契約が終わり、造成工事、建設に向け許可申請作業に乗り出す。しかし、農地転用、隣地地権者同意と困難を極めた作業であった。
特に11軒の地権者に何回も足を運び同意承諾の印を戴きましたが、単なる印を押すこと以上に尊いご縁を得た思いであった。10ヵ月に渡るこの作業も終わり、当年11月件の許可も下り県の許可も下り本契約となった。
その後、約1万平方米の造成工事、建築も平成元年4月、遂に完成、駿河湾を望み、北に富士を仰ぐ、伝道の場が今ここに、多くの方々の援助と励ましを得、実現したのである。
そして、5年間の仏教布教活動が認められ、本山より長照寺の寺号の下賜、県より宗教法人の許可証下付、晴れて新寺建立がなされ、落慶を迎えたのである。
新たなる決意
最後に宗教的情操の欠落を我が身に感じ、仏教伝道者として自ら反省し、真実の世界へ導くその案内役であるという自覚、そして僧侶としても驕ることなく共に歩ませて戴くことが、我が使命と心に問いかける今日この頃である。